2022年2月『2月県議会』一般質問
「本県の歴史的認識と今後の広報について」

 民主県政クラブ県議団の原中誠志です。発言通告に従い、「本県の歴史的認識と今後の広報について」質問します。
 
昨年、2021年、令和3年は、1871年、明治4年に行われた「廃藩置県」により、「福岡県」が誕生して150年の節目にあたる年として、県を挙げて「福岡県置県150周年」の取り組みがなされ、県内様々な地域、公的機関等で記念行事が取り組まれました。
 
 県民に対する様々な広報活動とともに、パネル展なども行われました。私も、県庁ロビー及び「イオンモール福岡」で開催されたパネル展を観に行きました。また、講談師の神田 紅(かんだ くれない)さんの150周年記念動画も見ました。更に、筑紫野市「福岡共同公文書館」、小郡市「九州歴史資料館」で開催された「県政150年の歩みを振り返る展覧会」に行ったところです。
 
 記念行事の取り組みとしは、私としては大変興味あるものでした。しかし、本県の歴史を広く県民に広報する、伝えるという事でいえば、やはり一過性のように思えます。
 
 また、厳密にいえば、1871年当時、県域にあった7藩(福岡藩、秋月藩、豊津藩(旧小倉藩、支藩として千束藩)、中津藩、久留米藩、柳河藩、三池藩)が統合され、福岡県、三潴県、小倉県の3県に収れんされたわけで、その3県が統合されて現在の県域が確定するのは1876年、明治9年ですから、いまから4年後に150年を迎えるわけです。なお、県庁舎が舞鶴の「福岡城」(跡)から天神に移ったのも、この年でした。
 
Q1:そこでまず、知事に伺います。
 現在の県域確定となって150年、県庁舎が舞鶴の「福岡城」から天神に移って150年、この記念すべき年である4年後に向け、周年行事の取り組みを準備すべきだと思いますが、知事のお考えをお聞きします。
 

  • 現在の県域が確定して150年となります4年後の周年行事についてお尋ねがありました。
    • 福岡県誕生に係る周年行事でございますが、廃藩置県により福岡県が誕生いたしました1871年を起点とした節目の年に実施しておりまして、1971年に100周年事業、2021年、昨年でございますが、150周年事業を実施したところでございます。
  • 現在の県域が確定して150年となる2026年には、周年行事を予定してはおりませんが、県の歴史を周知する一つの契機といたしまして、福岡共同公文書館や九州歴史資料館、県立図書館と連携しながら県の歴史を周知してまいりたいと考えています。

 
 さて、皆さん、孫文という名をご存じでしょうか。ご存じないという方は、おそらくこの場にはいらっしゃらないと思います。
 
 ご承知の通り、孫文は大清帝国末・民国初期の革命家であり、政治家です。孫文は、「辛亥革命」(しんがいかくめい)を起こして「清(しん)王朝」を倒し、中華民国を建国した人物です。28歳で清の打倒を掲げてから58歳で亡くなるまで、生涯の大半を革命に捧げました。
 
 お隣り、中華民国・台湾では国父、中華人民共和国・中国では革命の父と呼ばれていますが、その長い革命活動の中で、多くの日本人と関わりを持ち、数度の亡命も含め、何度も日本を訪れています。
 
 孫文の革命運動は、1894年、明治27年(いまから128年前)、ハワイで「興中会(こうちゅうかい)」を結成したときからスタートしています。
 
 翌1895(明治28)年には武装蜂起のために清国に渡りますが、計画が事前に漏れたため失敗。清朝政府から1,000元(=現在18,220円、当時1円=現2,200円)、今のお金で換算すると約4千万円もの懸賞金がかけられ、追われる身となり、日本に亡命します。その後、アメリカをへてイギリスに渡ります。
 
 翌1896(明治29)年、ロンドンで清国公使館に捕まり監禁されますが、イギリス政府の働きかけによって無事に釈放されます。当時の様子を著(あらわ)した「倫敦被難記(ろんどんひなんき)(ロンドン遭難記)」によって、革命家・孫文の名は世界に広く知れわたります。また、「三民主義」のヒントは、ロンドンでの活動中に得たともいわれています。
 
 1897(明治30)年8月、イギリスで釈放後、孫文は、日本に渡り、革命の準備を再スタートさせます。孫文当時31歳、いまからちょうど125年前の事です。
 
 ちなみに、この日本滞在中、近所で見かけた「中山(なかやま)」と書いてある表札をえらく気に入り、その後「中山樵(なかやま きこり)」と名乗っており、中国でも「孫中山(そんちゅうざん)」の名を使っていたことから、台湾や中国では孫文よりも「孫中山(そんちゅうざん)」のほうが有名です。
 
 さて、清王朝や中国政府から常に追われる身だった孫文は、さまざまな国を渡り歩いていますが、特に日本とは深い関わりがあります。革命生活の3分の1にあたる約10年近くを日本で過ごしています。その年月の中で、孫文とかかわりを持った日本人は300人以上いたと言われています。
 
 とりわけ、孫文の活動を支える資金を提供したのは、九州人でした。長崎県対馬市出身の梅谷庄(うめやしょう)吉(きち)や熊本県荒尾市出身の宮崎滔天(みやざきとうてん)は有名ですが、それにも劣らずというか、それ以上の支援をしたのが、ほかならぬ福岡県人でした。
 
 1905(明治38)年、パリに滞在していた孫文が、決起を促(うなが)した宮崎滔天の手紙を読んで来日し、東京で「中国同盟会」を結成します。この時、福岡の「玄洋社」の頭山満が犬養(いぬかい)毅(つよし)に要請し、犬養が政府に圧力をかけ孫文の安全を担保し、「玄洋社」社長の平岡浩太郎が孫文の生活費と活動費を負担しています。
 
 1911(明治44)年10月に勃発した「辛亥革命」により、同年12月3日に「中華民国臨時政府」が成立。翌1912(明治45・大正元年)年1月1日の真夜中、孫文は「中華民国」の公式設立を宣言、臨時大総統に就任しました。
 
 しかし、わずか40日後、臨時大総統を辞職せざるを得ず、3月10日、袁世凱(えんせいがい)に中華民国第2代臨時大総統を譲ることになります。
 
 翌年の1913年、大正2年、2月13日から3月28日までの44日間、前・国家元首の栄光に包まれ、孫文は日本政府の賓客として来日します。この時、同年3月16日から19日までの4日間、福岡に滞在しています。
 
 この福岡滞在中、3月17日には、まさにこの地、東公園の「一方亭」(いっぽうてい)にて、安川敬一郎、貝島太助、松本健次郎、麻生太吉、中野徳次郎、伊藤伝衛門、堀三太郎の七氏連合にて、炭鉱経営者主催の歓迎会が開かれています。名前を聞いてもお判りのように、福岡を代表するそうそうたる面子(めんつ)であり、これら炭鉱経営者が孫文に革命資金を提供していたわけです。
 
 そして、翌3月18日、東中州の「福岡県公会堂」、現在の「旧福岡県公会堂貴賓館」ですが、そこで福岡県主催の歓迎会が催されています。出席者は官民各層200人ほどで、盛大な歓迎会であったという事が、当時の「福岡日日新聞」に記事として残っています。
 
 当時の川路利恭(かわじ としあき)第17代福岡県知事の挨拶のあと、孫文が演壇に立ち、「福岡市において盛宴に招待され、また吾国の大事業たる革命に際しても、多大の援助力を受けている九州の人士(じんし)、福岡県人に感謝する。」という言葉を述べています。
 
 孫文が福岡を周遊し、「福岡県公会堂」で講演したなど、このような歴史がありながら、残念ながら、県民の間にはこの史実はあまり知られていないようです。それは、こうした史実を、教育の場でも伝えきれていないことにあると思います。
 
Q2:そこで教育長にお聞きします。
 県内の市町村立学校並びに県立高校において、生徒に本県の近・現代史および地方史をどのように伝えているか。そして、今後、どのように伝えるべきか、教育長のお考えをお示しください。
 

  • 公立学校における本県の近・現代史及び地方史教育についてでございます。
    • 市町村立の小・中学校においては、社会科のほか、道徳科や総合的な学習の時間などで、近・現代史や身近な歴史上の人物・出来事を取り上げ、先人の功績や郷土の歴史に対する理解を深める学習を行っております。例えば、「郷土科」として独自のカリキュラムを作成している学校もございます。
  • 県立高校においては、選択科目の「日本史A・B」で、鉄鋼の国産化に大きな役割を果たした八幡製鉄所や筑豊炭田について、また、必履修科目の「世界史A・B」で、孫文や辛亥革命について学習します。
    • 更に、ありあけ新世高校の「有明学」や稲築志耕館高校の「地域文化史」など、独自の学校設定科目を設けて、郷土の歴史を学ぶ学校もございます。
  • 今後については、小・中学校においては、郷土の先人等の名言や生き方等に関する内容を取り上げた県教育委員会作成の「ふくおか郷土資料DVD」を活用するなどして、引き続き取組の充実を図ってまいります。

 

    • 高校においては、来年度から、近・現代史を中心に学ぶ「歴史総合」が必履修科目となりますので、更に多くの生徒が本県の近・現代史に触れることになると考えております。

 
 さて、1913年、大正2年、3月16日から19日までの4日間、孫文は福岡県を訪れ、このうち北九州には2日間、滞在しています。
 
 3月16日には、戸畑に安川敬一郎氏を訪ね、安川が設立した「明治専門学校」、現在の「九州工業大学」で講演し、同日、安川敬一郎邸に宿泊しています。このとき、滞在のお礼として「世界平和」という書を揮毫しています。贈呈された扁額は現在、「北九州市立いのちのたび博物館」が所蔵していますが、レプリカは「安川電機歴史館」の入り口に飾ってあります。
 
 そして、翌3月17日には「八幡製鐵所」を視察、翌3月18日は「九州帝国大学医学部」を参観し、夕刻には「九州帝国大学」で講演しています。九州大学の総長室には孫文が送った「學道愛人」という書額がかかっています。
 
 更に、翌3月19日には大牟田市に出向き、三池港、四ツ山発電所、三井港倶楽部で昼食、万田鉱を視察後、「三井工業学校」、現在の「三池工業高校」で、学生たちに演説をしています。なお、孫文が揮毫(きごう)した暢達(ちょうたつ)な筆勢の「開物(かいぶつ)成(せい)務(む)」の書額が「三池工業高校」の校長室に掛けられています。
 
 先ほども述べましたが、孫文という名は広く知られていますが、孫文が福岡で過ごし、県人との関りが極めて深かったという事実については、残念ながらあまり知られていません。私は残念で仕方がありません。
 
 孫文という世界的な歴史的著名人を活用し、もっと積極的に県の魅力アップ、観光につなげることが必要だと思います。
 
Q3:そこで教育長に質問です。
 「旧福岡県公会堂貴賓館」では、県教育委員会が指定管理制度を導入し、重要文化財の保存活用のため、館内の公開とともに、様々な催しが行われています。
 この貴賓館を広報や案内で紹介する際には、建物の沿革だけでなく、先に取り上げたような著名な歴史上の人物との関りを紹介してはいかがでしょうか。このことにより、貴賓館の歴史的価値や認知度を高めるとともに、郷土への誇りの醸成につながると考えますが、教育長の見解をお聞かせください。
 

  • 旧福岡県公会堂貴賓館と歴史上の人物の関わりについてでございます。
    • 貴賓館と、著名な歴史上の人物との関わりを紹介することは、国指定重要文化財である貴賓館の価値をより高め、文化財や郷土を愛する心の育成につながると考えます。
  • このため、貴賓館のホームページで紹介をいたしますとともに、館内を案内するボランティアガイドによる周知や、館で実施をします近現代の歴史講座での紹介に努めてまいりたいと考えております。

 
 併せて、県営「天神中央公園」ですが、現在、県民・市民の憩いの公園として親しまれており、また、公園広場では、年間を通じて様々な催しが開催されるなど、広く活用されています。
 
 その場に、もとは旧県庁舎が建っていたという事は、プレートの設置や、南側に当時の建築物の一部が残されていることで伺い知ることはできるものの、もとは「福岡城」の一角であり、「アクロス福岡」の東側は築城当時の石垣がそのままの姿で残っているとか、中州、天神北、天神中央公園周辺には、まさに「ブラタモリ」的な歴史探索が十分できる歴史的遺構が多く残っています。
 
Q4:そこで知事にお聞きします。
 福岡都心部の県営公園である「天神中央公園」、「大濠公園」、「西公園」について、憩いの場、憩いの空間としての価値はもとよりですが、歴史資源を活用したピーアールをすることで都市公園の魅力をもっと高める、ピーアールできると考えますが、知事のお考えをお聞きします。
 

  • つぎに、福岡市都心部の県営公園の歴史資源を活用した魅力向上についてお尋ねがございました。
    • 天神中央公園、大濠公園、西公園は、福岡都心部のオアシスとして県民の皆様の休養やレクリエーションに利用されております。また、それぞれの公園は歴史資源にも恵まれているところでございます。
  • このため、天神中央公園では一昨年度に国指定の重要文化財である旧福岡県公会堂貴賓館と一体的な再整備を行ったところでございます。
    • また、大濠公園におきましては一昨年度に「セントラルパーク基本計画」を、西公園では今年度に「再整備基本計画」をそれぞれ策定いたしまして、公園内にございます加藤司書や平野國臣の記念碑などの歴史資源と、周辺の福岡城址や鴻臚館跡などの歴史資源とのつながりを活かした整備を行うことといたしております。
  • 今後は、これらの公園のPR効果というものをさらに高めますため、歴史的な視点で取りまとめたパンフレットを作成し情報発信を行ってまいります。また、利用者が回遊しながら歴史散策ができますよう案内板を設置いたしまして、公園の魅力の向上を図ってまいる考えでございます。

 
以上、知事、教育長の真摯なご答弁を期待します。